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レーシャ・ウクラインカ 第3部

26/8/1 3:00

国際理解記事プロジェクト
スポンサー:ZenGroup株式会社

なぜソ連のプロパガンダは、レーシャ・ウクラインカを「病弱で不幸な少女」として描き続けたのでしょうか。それは、全体主義体制が強い民族的象徴となる人物を恐れていたからです。彼女の卓越した知性を認める代わりに、同情の対象へと矮小化することで、その存在を無力化しようとしました。



しかし、ウクライナを代表する作家イヴァン・フランコは、彼女を「現代ウクライナにおける、ただ一人の真の男かもしれない」と評しました。これは性別を意味するものではなく、その揺るぎない意志と並外れた知性を称えた言葉でした。それは、多くの男性知識人が悲観や嘆きに沈むなかで、ひときわ際立つ精神の強さを表していました。



レーシャの晩年は、まさに肉体を超えた精神の勝利でした。終わりが近いことを感じながら、遠くジョージアのクタイシで執筆したのが、代表作となる幻想詩劇『森の歌』です。この作品は、故郷の森や幼い頃に歩いた小道への深い郷愁から生まれました。



耐え難い苦しみのなかで、彼女は祖国の自然の記憶に心の拠り所を求めました。そこでは、すべてが永遠に循環し、死さえも新たな存在への移り変わりにすぎません。その思いは、主人公マウカの有名な言葉に込められています。



「いいえ、私は生きている。私は永遠に生きる。私の心には、決して滅びることのないものがある。」



1913年の夏、ジョージアの山あいの町スラミで、穏やかな気候により病状がわずかに和らいでいたその地で、レーシャは最期の瞬間まで創作を続けました。彼女に子どもはいませんでしたが、夫クリメント・クヴィトカ、妹イジドラ、そして母オレナ・プチールカという献身的な家族がそばにいました。



すでに自らペンを持つことはできませんでしたが、その精神は最後まで衰えることはありませんでした。亡くなる数日前には、古代アレクサンドリアを舞台とする新たな歴史劇の構想を家族に口述していました。また、民族音楽研究者でもあった夫には、幼い頃から覚えていた故郷の民謡を静かに口ずさみ、それらの貴重な文化遺産を書き留めてもらいました。



彼女が1913年8月1日にその生涯を閉じたことは、象徴的な意味を持っています。この日は、ウクライナの伝統行事「マコヴィー・スパス(ケシと蜂蜜の祭り)」にあたります。一年で最も甘い蜂蜜が採れ、ケシの実が実る季節です。



小さなケシの種には、一面の花畑を咲かせる力が秘められています。そして蜂蜜は、夏の太陽の恵みが凝縮された結晶ともいえるでしょう。それと同じように、レーシャの作品もまた、生命力を凝縮したような存在となりました。



彼女は犠牲者としてではなく、勝利者として永遠の世界へと旅立ちました。



それは壮大な交響曲の最後の楽章でした。しかし、その歌は決して終わることはありません。彼女が私たちに遺したのは涙ではなく、知性という武器、そして自由な精神が成し遂げた揺るぎない勝利なのです。

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