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ウクライナ詩的映画の巨匠、オレクサンドル・ドウジェンコ

26/9/10 12:00

「国際相互理解」プロジェクト
プロジェクトスポンサー:ZenGroup株式会社

教師、画家、そしてワルシャワやベルリンで勤務した外交官でもあったオレクサンドル・ドウジェンコは、32歳のときに人生を大きく転換しました。映画について専門的に学んだ経験がなかったにもかかわらず、オデーサ映画スタジオで働き始め、撮影の現場で独学により映画監督としての技術を身につけていきました。ドウジェンコは映画を映像による詩へと変え、何気ない場面にも壮大な力を与えました。



ドウジェンコは、自然環境との哲学的な関係を映像で表現し、自然そのものを生きた登場人物として描いた、世界映画史における先駆者の一人です。温かな雨にぬれるリンゴ、葉の上の雨粒、風に揺れる小麦の穂は、人間とともに呼吸しているかのように映し出されます。



また、深い比喩を伝えるために連想的なモンタージュを巧みに用いました。人工的で芝居がかった演技を避け、彼の作品に登場する人物たちは、まるで大地そのものから生まれてきたかのようです。



ウクライナ人監督による革新的な映像表現は、世界を魅了しました。チャールズ・チャップリンは、ドウジェンコを映画界の偉大な詩人として高く評価しました。人間のドラマと自然の壮大な力、そして記念碑的な映像美を結びつける彼の表現は、世界の映画言語の一部となり、世代を超えて多くの優れた映画監督に感銘を与えました。マーティン・スコセッシに関係する世界映画の保存・修復活動など、国際的な取り組みによっても、その遺産は守り継がれています。



ドウジェンコ芸術の頂点となったのが、生命と死の永遠の循環を描いた映像詩『大地』(1930年)です。1958年にブリュッセルで開催された万国博覧会では、世界映画史上最高の12作品の一つに選ばれました。



しかし、公開当時のソ連では激しい批判にさらされました。ドウジェンコは「民族主義者」と非難され、作品は間もなく上映中止となりました。



ソ連体制は、この芸術家を支配下に置こうとしました。ドウジェンコは、政権の監視のもとでモスクワに暮らし、仕事をすることを強いられました。脚本の変更や、イデオロギーに従った映画制作を要求され、創作の自由とウクライナ人としての声を制限されました。



故郷への強い思いを抱いていたドウジェンコは、カホウカ水力発電所の建設とウクライナの土地の水没を題材とした最後の作品『海の詩』の制作を何年も引き延ばしました。それは、少しでも長くウクライナにとどまるためでもありました。



ドウジェンコは、自分の死後、心臓を故郷ウクライナに埋葬してほしいと願っていました。しかし、ソ連当局はその願いを無視しました。祖国に戻ることを許されないまま異郷で亡くなり、モスクワに埋葬されました。日記に残された最後期の言葉の一つは、「愛はない。情熱もない」でした。



現在、キーウにあるウクライナ国立映画スタジオは、オレクサンドル・ドウジェンコの名を冠しています。一方、オデーサは、彼が映画への道を歩み始めた場所です。6月15日未明、ロシア軍の攻撃によりドウジェンコ映画スタジオが被害を受け、歴史的な衣装の大規模なコレクションを収蔵していた最も古い衣装庫が火災で失われました。



今日、ロシアはウクライナに対して戦争を続け、かつてソ連の独裁体制がドウジェンコ自身を抑圧したように、ウクライナ文化を破壊しようとしています。



しかし、ウクライナの人々は、自らの道を自由に選び、母語で語り、歌い、芸術を創造し、自らの土地を守る権利のために闘い続けています。



その自由の声は、今も世界に響き続けています。

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