
銃殺されたルネサンスソビエト政権はいかにウクライナ文化の担い手を奪ったのか
26/10/28 12:00
国際理解記事プロジェクト
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ウクライナの文化には長い歴史があります。その中でも1920年代は、文学や芸術が目覚ましく発展した時代でした。この文化的な高まりは、ウクライナの文化復興期として知られています。
1917〜1918年、帝政の崩壊とロシア帝国の解体を経て、ウクライナの人々は独立国家の樹立を目指しました。しかし、ボリシェヴィキは武力によってウクライナの大部分を支配下に置きました。政権を安定させるには農民や知識人をはじめとする住民の支持が必要だったため、ソビエト当局は1923年に「ウクライナ化政策」を本格的に進めました。教育や行政、文化活動でウクライナ語がより広く使われるようになり、学校や劇場、出版社も次々に生まれました。この短い雪解けの時期は、芸術と学問の発展を力強く後押ししたのです。
当時、多くのウクライナの芸術家や作家は、押しつけられた思想の枠にとらわれず、現代的なヨーロッパ文化を築こうとしました。世界の前衛芸術やヨーロッパのモダニズムに学びながら、新しい発想とウクライナの伝統を結びつけ、独自の表現を模索したのです。レーシ・クルバスが率いた劇場は革新的な演劇の拠点となり、作家たちは人間の内面を深く描く小説や詩を生み出しました。美術家たちは伝統とモダニズムを融合させ、研究者たちは辞書を編纂し、学術機関の発展に取り組みました。こうしてウクライナ文化は新たな形を獲得し、ヨーロッパの文化の中で独自の存在感を示していきました。
しかし、この復興は長く続きませんでした。1920年代末、ソビエト当局は文化や社会への統制を強め、ウクライナ文化が独自に発展することを中央集権的な支配への脅威とみなすようになりました。そして政権はウクライナの知識人層を徹底的に破壊しようとし、激しい弾圧、逮捕、でっち上げの刑事事件が相次ぎました。
その最もよく知られた事件の一つが、1937年10月27日から11月4日にかけて、ロシア北部カレリア地方のサンダルモフで起きた、ソビエトの秘密警察NKVDによる銃殺です。ここでは1,111人の囚人が秘密裏に殺害され、その中には287人のウクライナ人の文化人・著名人が含まれていました。犠牲になったのは、演出家レーシ・クルバス、劇作家ミコラ・クリシュ、作家ヴァレリヤン・ピドモヒリヌィ、詩人ミコラ・ゼロウをはじめとする、ウクライナ文化を代表する人々です。彼らはウクライナ文化を守り育てようとしたために、捏造された罪を着せられて殺され、その作品や名前もその後何十年にもわたり、文化の歴史から消し去られようとしました。
こうした弾圧は、後に「銃殺されたルネサンス」と呼ばれるウクライナの芸術家・知識人の世代全体の悲劇を象徴するものとなりました。彼らの運命はサンダルモフでの銃殺だけにとどまりません。別の場所で処刑された人、投獄された人、沈黙を強いられた人、検閲に従わざるを得なかった人もおり、その文化的遺産は長い間、後の世代から遠ざけられていました。
現在、ウクライナは再び自由と自らのアイデンティティを守るために闘い、ウクライナ語で自由に話し、書き、創作する権利を守っています。約100年前と同じようにヨーロッパとの結びつきを選び、強制的なロシア語化に抵抗しています。「銃殺されたルネサンス」の人々の記憶は、文化の自由がどれほど大きな犠牲を伴い得るかを私たちに伝え、自由な未来を目指す力となっているのです。